神奈川みなみ医療生協は1950年11月の創立から70周年を超えました。このコーナーでは、医療生協が歩んできた70年の歴史を振り返ります。



神奈川みなみ医療生活協同組合は、購買生協の横須賀生活協同組合としてスタートします。戦後の荒廃した生活の中から生活物資をもとめて立ち上がり、民主運動を進め、旧産業組合法に基づき、1950年11月18日に創立されました。発足した横須賀生協の組合員は横須賀市全域に広がり、やがては葉山町、逗子市へと広がっていきました。
横須賀生協は、徴税や差し押さえで商売が行き詰った商人と手を結び、商店との合同をすすめ組織を大きくしていきます。こうした動きを警戒した政府は、1954年に生協法を改正し規制を行ないました。そのため、合同した店舗は横須賀生協から脱退、一気に厳しい経営状態に陥りました。



このような中、衣笠診療所が1955年7月に開設されます。
生協法改正のために危うくなった横須賀生協の再建策として、診療所経営が決定されました。一方で、以前から横須賀市内に「民主診療所」をつくろうという動きがあり、この2つが合流し衣笠診療所がつくられていきます。
全国的にも購買・医療事業を行う生協は数えるほどしかありませんでした。また、当時は横須賀にはじめて誕生した民主医療機関として注目を集め新聞報道されました。
1950年2月、問屋からランドセルを仕入れ代金を繰延にして衣笠駅前に土地を購入。所長には以前から横須賀に民主診療所をつくろうとしていた榊原芳樹医師、事務長には当時東京で民医連活動をしていた大窪敏三を迎えました。設立趣意書には、医療に恵まれない人々のための医療機関として大衆的に建設するという内容で、市内の労働組合の幹部や民主的な人々が賛同者として名を連ねました。



開設をした診療所は榊原医師、大窪事務長のほか、看護婦2名、事務員1名、炊事1名で船出をしましたが、運転資金はなく無一文の有様で給料日には事務長が組合員の家を借金に歩いて回るという状況でした。
診療は朝の9時から午後9時、土曜日は午後5時まで、日曜日は隔週で半日診療を行ない、開設から一ヶ月目にして1日の患者数が100人を超える日もあるほど地域からの信頼を集め、診療所の経営は順調で大変忙しい日々でした。翌年の1956年1月には神奈川民医連に加盟。さらに民主経営と職員の生活を守るために1959年(昭和34年)5月に労働組合が結成され、諸規定の整備、経営への協力協同をすすめ、経営改善へ大きな貢献が果たされることになります。

2020.12.29
つづく


三浦医療生協創立。そして三浦診療所の開設


三浦医療生協の誕生
三浦医療生協の設立には市政との関わりが深くあります。三浦市では1969年(昭和44年)に就任した当時の市長による強権政治が展開されていました。市民の要求はおろか、県庁で県庁役員ともめ事を起こすなどの問題も起こしていました。同じ頃、活動を停止していた三浦地区労働組合協議会(以下、地区労)が複数の組合によって活動再開されました。この再開は当時企てられた自衛隊パレードの阻止やその後の横須賀生協とのつながりが生まれるきっかけともなっています。1973年(昭和48年)のオイルショックにより砂糖やトイレットペーパー、灯油等の物資不足がおきました。この2年ほど前から故大菊昭治氏が横須賀市秋谷に住む古沢潤氏から横須賀生協購買部から仕入れた安全食品などを車で運び、市内に住む消費生協で活動する数名に分けていました。その話を知った地区労から横須賀生協本部に話が持ちかけられ、「三浦消費即売会」を旧市場で開催をきっかけにつながりが生まれました。そしてもっとも大きなきっかけとなったのが1973年(昭和48年)の三浦市長選挙です。その頃は各地域で革新統一の首長が誕生していた時期であり、三浦でも市長による強権政治への不満などから民主的な革新市政を作ろうと動き、革新政党や三浦地区労、民主団体で「明るい民主市政をつくる会」を結成しました。会は当時市立病院の勤務医だった田中一男医師(以下、田中医師)を擁立して闘い、激しい選挙戦の末7,884票を集めましたが次点となり惜しくも敗れてしまいました。
選挙後、田中医師は知り合いの病院などでアルバイト医として気ままに過ごされていましたが、三浦市に診療所を開設したいとの思いがあることを知った革新市政を作ろうとしていた人たちが立ち上がり、地区労や議員などと相談した結果、医療生活協同組合の診療所を設立することになりました。当時の三浦市は医療機関が少なく、診療所の開設に市民は大きく期待しました。その後設立発起人会の結成、市民に加入と出資、組合債への協力を得ながら、1974年(昭和49年)9月に創立総会を開催。こうして三浦医療生協が誕生しました。


三浦診療所の開設
同年11月に木造2階建てアパートを改造した三浦診療所を開設。理事長兼診療所所長には田中医師が着任。開設当初は市立病院の頃からの患者や評判から患者は増え、午前の診療が終えると田中医師は一人でジープを走らせて何処へでも往診に出かけたそうです。こうして地域の信頼を得て患者は増えていきましたが、田中医師はあまり検査をすることがなかったので収入は少なく、診療所の財政状況は非常に厳しかったそうです。
海南診療所の開設。三浦診療所の一時閉鎖、そして再開
田中医師により「もっと広い場所へ移したい」と独断で三崎小公園前に三浦診療所の分院「海南診療所」を開設。三浦診療所はアルバイトの医師で何とか診療を続けていましたが患者が激減したため1979年(昭和54年)2月に一時閉鎖となりました。そして、同年9月の臨時総代会で設備投資を強く要求する田中医師に理事会は財務状況から厳しい旨を再三再四説明しましたが、ついに田中医師による理事退任要求を受け、創立時の理事は全員退任、そして新たな理事を選出して再出発することになりました。しかし田中医師による設備投資などの要求はその後も続き新しい理事たちも苦労したそうです。
1981年、田中医師はある日突然辞表を提出し退職。理事会では後任の医師探しに困り果てていたころ、衣笠診療所より泊谷医師の就任が決定。この時、意気消沈していた理事や職員は久しぶりに活気づいたそうです。泊谷医師の就任後、海南診療所は1982年(昭和57年)10月に閉鎖し、古巣である三浦診療所での診療を再開しました。


神奈川みなみ医療生協と三浦医療生協の法人合併
古巣の三浦診療所を再開し、三浦医療生協の再建がはじまりました。新しい理事長には泊谷医師が着任。レントゲン設備はあるが技師がいなかったため衣笠診療所より技師や栄養士の支援を受けながら、慢性疾患医療活動が前進。患者は月毎に増えていきました。当時から救急医療もしており市立病院が受けれない患者を横須賀に送ったり、高齢夫婦が救急車できて、入院の必要なく様子を見るだけでよい患者は三浦市には夜間タクシーがなく変えるすべがないので送って行ったりしたこともあったそうです。しかし地域の組合員・患者から信頼され、役立つ医療生協としてさらなる発展をしていくためには小規模な生協ではその力量に限界があり、特に地域がら医師をはじめ専門家を確保していくことに困難を極め三浦地域での責任のもてる医療を続けるため、理事会は神奈川みなみ医療生協との法人合併に向けて検討をはじめました。しかし当時はまだ大きな負債を抱えていたため理事会・職員と一致団結をして、最高時1,000万円あった赤字の解消と組合債の全額返済を行いました。そして1984年(昭和59)3月の臨時総代会で法人合併を決定。同年4月に三浦医療生協は神奈川みなみ医療生協と法人合併をし、三浦医療生協としての活動は幕を閉じることになりました。

2021.2.15
つづく

 

葉山病院建設


葉山に病院用地取得:1982年
過去、幾度も頓挫した病院建設計画と同様に、横須賀市南部地域での病院建設も1981年(昭和56年)8月、断念となりました。しかし、衣笠診療所の患者は待合室からあふれるほどで、新しい病院建設は待ったなしとなっていました。
そのため、必死の努力で数ケ月の間に候補地をあげ、1982年(昭和57年)3月に葉山町の土地取得が決まりました。ところが、理事会では土地の場所が明らかにされないまま、取得の決定が求められたのでした。このようなやり方に対し理事会では、厳しい意見、懸念が出されました。
建設する病院は、「日本でも最高水準の糖尿病教育病棟をめざします。」とうたわれ、糖尿病を中心とした医療が構想されました。
衣笠診療所はこの当時、慢性疾患の療養管理システムを築き糖尿病療養においては全国的に評価される、評判の医療機関となっていました。そのため、診療所の医療活動の中心は糖尿病管理であり「糖尿病さえやっていればよい」という認識すら一部にありました。当然このようなあり方を問題とする人も少なくありませんでした。しかし、特定の医師や幹部により、新病院での医療構想は糖尿病に特化した方向にすすんでいきます。

葉山クリニック工事・オープン:1983年
病院の前段、診療所の建設工事は1983年2月に着工、名称は公募により「葉山クリニック」と決定されました。建設地域は、人口が少なく路線バスの本数もわずかで医療機関は全くない地域でした。そこに診療所ができ、その後病院になるとのことで、地元の方から期待があつまります。建設運動として、地元患者さんへのご案内、地域への宣伝、コープかながわへの組織活動、町内役員会での説明などが行なわれ、加入増資を増やしていきます。
さまざまな取り組みを経て、葉山クリニックは8月1日オープンします。平尾紘一所長、関則子婦長、猿渡陽一郎事務長の体制でした。オープン直後2週間の患者数は一日平均8人(計画の1/3)、ほぼ地元の上山口・木古庭在住の方でした。その後患者は増えていきますが、なかなか計画には到達できず推移します。開設4年目でも、1日35人の計画に対し実績は30人前後でした。なお、診療所2階には組合員患者向けの会議室がつくられており、そこの利用者も徐々に増え、体操教室の参加者は50人に上るほどでした。
開設後の経営結果は赤字で、病院建設にむけて葉山クリニックの赤字克服は大きな課題でした。



葉山病院建設へ:激しい議論がされる:1985年~1986年
1985年(昭和60年)には、いよいよ新病院建設が具体化されていきます。
この病院建設については、法人内で激しい論争が繰り返されます。医療情勢や経営が厳しい中で病院を「建設すべき」か「中止すべき」か、主に3点での議論が続きました。
・一つは糖尿病に特化した医療構想でした。地域の医療要求に応えるというよりは、糖尿病に特化し県外からの患者増を想定していました。
・二つめは、組織運営のあり方でした。取得用地が明らかにされず承認が求められたり、意見・疑問・懸念があるのに一部幹部により計画が進められていました。
・三つめは、経営問題でした。経営計画が達成不可能な患者数でつくられますが、現実的には建設での多額の投資は永久に回収不能との指摘がありました。
理事会では、病院建設問題に多くの時間を費やし、職場や労働組合での論議も数年にわたりました。そのため、一時は法人内に深刻な不団結が生まれました。最終的にベッド数を30床に縮小し、1988年(昭和63年)オープンをめざす案が決定しました。この問題については、日生協医療部会・全日本民医連から民主的管理運営や経営管理への責任などの問題が指摘されました。


組合員訪問等建設運動をへて葉山病院オープン:1986年~1988年
激しい議論はありましたが、建設のための宣伝・組織強化は継続して取り組まれました。
組合員健診、病院説明会、健康講話、団地町内会総訪問、かながわ生協への医療生協説明会などが行なわれています。100人~500人規模の「病院建設を目指す組合員のつどい」などが繰り返され、組合員患者総訪問も実施されます。病院建設を決めてからの5年間で増資は7千万円を超え、葉山病院の地元上山口地域では組合員の比率が世帯の30%へと上昇しました。
このような運動をへて、1988年(昭和63年)2月1日に葉山病院がオープンしました(院長平尾紘一、婦長福士恵子、事務長猿渡陽一郎)。建設用地取得からすでに6年が過ぎており非常に厳しく文字通りの難産でした。


葉山病院の医療活動:1988年~
葉山病院は、医療機関がなかった地元の人に「近くてかかりやすい」と歓迎され、いざという時には入院できるとの期待も集めました。
外来では、慢性疾患管理システムを充実させ、健康管理・健康増進の事業を推進します。充実した内容で、当初一日70人台だった患者数は90人を超えるまでに増加していきます。在宅分野でも、常勤医師による往診と訪問看護をはじめました。また、当直医師もいるので24時間患者さんの受入れも対応していました。入院では、肺炎や心不全、脳梗塞、がんの終末期の方など様々な疾患の方に対応しました。もちろん糖尿病「教育入院」の方が多く、県内外からの予約で数ケ月先まで埋まる状況がしばらく続きます。院長がテレビ出演をした影響などで、入院希望者は文字通り北海道から沖縄までいました。一方、地域の病院としての役割をどうはたすのかとの指摘もありました。



2021.5.06
つづく

 

逗子診療所開設


期待の大きい診療所建設
逗子診療所の開設は1999年(平成11年)、生協創立50年になろうとしている年でした。それまで逗子市には自前の医療機関がなく「地元に診療所」という要望は切実でした。また、逗子市は高齢化率が高い一方で、病院は療養型のみ、開業医の医師は高齢となっていました。このような中、組合員や地域の保健・医療要求を実現し、まちづくりをすすめるセンターとしての診療所建設が期待されていました。

供給班の時代から続く組合員活動
逗子市で組合員活動が始まったのは、1960年代の購買班としての活動からになります。横須賀生協が購買部門を分離した時期、購買生協(現ユーコープ)への移籍者もありましたが、医療生協に籍を残した組合員は、巡回健診と保健班活動を中心に活動を継続していきました。
葉山病院の建設時期にかけて、逗子東地域および小坪地域にブロックが確立し、保健活動や機関紙配布活動が定着し班づくりがはじまりました。1990年代には、診療所開設を見据えて組合員拡大に取り組み、組織強化では2つの支部(逗子東支部・逗子中央支部)を誕生させてきました



診療所建設のため2千人の組合員づくり
診療所建設の運動は1996年(平成8年)末、逗子市内に組合員事務所が設置されスタートします。事務所は、賃貸アパートでしたが逗子駅徒歩3分と立地は抜群でした。組合員にとっては、初めて持った自前のスペースとなり、事務所を利用した活動が広がりました。
翌年、診療所建設事務局として職員2人が事務所に常駐すると、運動が本格的に展開していきます。建設推進委員会が発足し、建設運動を組合員に呼びかけます。地域住民や団体へのお知らせ、逗子市や市老連会長との懇談などを行ない、周りに期待の声が広がっていきます。また、介護保険シンポジウムの開催、逗葉革新懇の結成、定例駅頭宣伝や何でも相談活動も行ない、社会保障運動や他団体との連携を強めていきました。

建設運動は、加入増資がカギを握ります。開設後の安定経営のため2,000人組合員づくりと、3千万円の出資金増資を目標にしました。1996年度末の逗子組合員は978人でしたが、ここから必死の頑張りが続きます。知り合いへの声かけ、街かど健康チェック、地域訪問の他、数度に渡る統一行動が繰り返されました。自分の家のように事務所に毎日来る組合員、知り合い数十人に加入してもらった組合員、多くの組合員がかかわっていきました。どうしても自分たちの診療所がほしい、何とかしたいと思う気持ちがこの運動を支えていました。
そうはいっても2千人組合員の峰は高く、少々疲れかけてきた頃に診療所の場所が決まります。賃貸ですが逗子駅近くのマンション1階、現診療所物件の契約が決定したのです。ここまで苦労に苦労を重ねてきた組合員から歓喜の声があがり、みんな大はしゃぎでした。そこからは、1999年1月に仮契約、3月の臨時総代会で名称を「逗子診療所」に決定するなど、開設準備が急ピッチで進められました。組合員数も、4月に逗子市隣接の葉山町堀内・長柄地域を含めて2千人を突破しました。


喜びかみしめ診療所オープン
逗子診療所の医療活動は、気軽に受診し何でも相談できる外来医療と、在宅医療、保健予防活動を柱とし、そのためのスタッフも最適の配置をしました。吉田保男所長(川崎医療生協より移籍)、鈴木吉廣事務長(建設事務局長)、田縁加寿子看護師長(葉山クリニック主任)でした。

診療所オープンは1999年(平成11年)6月1日。テープカットを多くの組合員参加で行ない、開設の喜びをかみしめ、これまでの頑張りを讃えあいました。患者さんからは「5年ほど前から衣笠診療所に通うようになったけど、消費税が5%になってからは通院ができないでいました。自宅近くに診療所ができ交通費を気にすることなく治療ができます。」という声も聞かれました。
開設時は不十分だった医師体制も徐々に充実し、患者も増加していきます。診療所づくりをやりあげた組合員も患者を連れてきます。組合員との協同で、利用委員会やボランティア組織も結成されました。この組織が、診療所内組合員ルームでの食事会や、気になる患者さんの地域での見守りを実施していきます。

日常診療の中では、「気になる患者さん」の相談活動も実施しました。問診の中で気になる患者がいた場合、相談につなげ生活保護申請や被爆者認定などに職員がかかわっていきました。




2021.7.01